リヨン(ローヌ地方)1867年3月10日
ニューヨーク(アメリカ合衆国)1942年3月20日
エクトール・ギマールはパリの地下鉄の入り口をデザインしたことで有名ですが、今日では、フランスのアール・ヌーヴォー運動のなかで、最も重要な建築家のひとりであると考えられています。しかしながら、フランスにアール・ヌーヴォーをもたらした功労者であるにもかかわらず、ギマールの活動が顧みられることはなく、芸術の動向のなかに位置づけられることもありませんでした。ここで注目にあたいするのは、1900年以降、建築だけでなく装飾美術の分野など様々な場で、「ギマール様式」という表現がとりいれられたことでしょう。
ギマールは主にパリで活躍し、その建物の多くはパリの16区に集中しています。まず人目を引くのは、カステル・ベランジェ(1895-1898)です。もともとギマールは、合理主義からインスピレーションを受けていくつか邸宅を制作していたのですが、ベルギー旅行やヴィクトール・オルタとの出会いを経て、カステル・ベランジェという巨大建築物をつくるに至りました。この建物をつくるにあたって、床のモザイクから、プレキャストの装飾天井、ステンドグラス、金物、壁紙等まで、必要な装飾要素はすべてギマールが制作しました。カステル・ベランジェが、サロン・デュ・フィガロでの展覧会や、第1回パリ市ファサード・コンクールで受賞することになり、ギマールの作品が研究の対象となりはじめます。
ギマールの邸宅デザインは、ダイナミックでありながら繊細です。邸宅のデザインでは、抽象的な様式を用いて、絵画的表現を発展させました。それらは、甘美な曲線とは対極をなすものです。代表的な作品例としては、ガルシュのモダン・カステル、セーブルのカステル・アンリエット、エルマン=シュル=メールのブルエットなどがあげられます。これらの建築でギマールは、異なるファサードに統一感をもたせようと試みています。
ギマールは、独創的な作風を展開していた時期に、地下鉄の出入り口の注文を受けました。工業製品のように規格化されたモジュールの要素で構成され、鉄を使うことで産業芸術の趣を醸し出しています。この門の出現は当初批判を受けたため、建築家としてのギマールの人気は急速に衰えました。その後、ギマールは1909年頃に活動を再開しますが、それは裕福な女性と結婚したおかげでした。この結婚のおかげで、モーツアルト通りに自邸を建設し、続いてアガー通りの広大な区画に投資することができたのです。こうしてつくられた一連の建物では、鉄が芸術と見事に調和して印象的であり、ゆったりとした古典的ともいえる新しい様式が見られます。この傾向は、同時期にギマールのつくった家具のほうで、より顕著にみられます。
その後、1914年に第一次大戦が勃発したことで、アール・ヌーヴォーは終焉を迎え、ギマールは新しい経済状況に順応しなければなりませんでした。ただ、このような時代の変化により、アール・デコ様式が生まれることにもなります。孤独な先駆者ギマールは、才能と想像力に長けていたものの、時代に追いつくことはできませんでした。そして長い間忘れ去られ、1938年にヨーロッパを去り、ニューヨークで逝去したのです。
ジョルジュ・ヴィーニュ